常に自分自身と向き合い、物事の本質と根源に立ち向かい、アイデンティティをさらけ出す。
そんな活動をしている、「富士魂」をもった、アーティスト、クリエイター達の声を聞く。
ボクシング、ファッションモデルを経て映画の世界へ。現在までに数々の作品でその個性的なオーラを発揮してきた役者、RIKIYA。
「いいものは年代を超えて訴えかける」と、アートやデザインなどと世代との係わりも語ってくれました。
■演じるということを考える上で、自分の表現や言葉に何らかの思想性や主義、主張をかさねて反映するものですか?だとしたらそれは、どのようなものですか?

僕の仕事は現在、演じる仕事がほとんどなんですが、その中でも僕は「役者」と「俳優」というものを区別して考えています。「役者」というのは、与えられた人物、役割を理解して、出来るだけその役になりきる、徹するという感覚なんです。ですから、表現も、その中に含まれる思想や主義も僕のものとは言えない。全く違う人格として演じる訳です。それに対して、俳優というのは有る意味半分は自分というものを生かした上で、その上に演技を乗せていくという感じなんです。実際は、どれだけその準備に時間がかけられるか、作り手に明確な人物像が有るかなど、様々な外的要因で決まることがおおいですねどね。そういった意味で「俳優」の方は、如何に自分自身の良さや自分のカラーを出せるかというのが勝負なんです。これが主義や思想性からくるものだと呼んで良いと思います。

■ボクシングからモデル、俳優業へ移行することは自然なことでしたか?どのような共通性を感じましたか?

ボクシングをやめてからモデルの仕事を始めるまでの間も、次はなにをしようかと模索してる時期があったんですが、誘いがあったときは意外とすんなり、やる気になりました。僕は、子供の時から、なにをするにせよ、自分の力というもので世の中を渡っていこうという気持ちが強かっところがあるんです。勉強もそういう意味で頑張って、ひとつの目標として大学に入ったんですが、入ってしまったら興味がなくなっちゃって(笑)ボクシングもそう。ボクシングはライセンス取得をするところまでで、やめてしまっているんですが、これは目のトラブルがきっかけだったんです。で、次は何だろうと模索している時間のなかで、こういう話がきたんです。だから、この仕事を始める時も、「よし、やってやろう」という、自分の可能性を試してみるという気持ちで始めることができたのだと思います。ただ、やっぱり、ある程度の自信みたいな、何かを始めたらあるレベルまではなにがなんでも行ってやるぞという気持ちは昔から持っていたように思います。 ボクシングや、これまでの経験は当然現在の、あらゆる場面で生かされているとおもいます。直接的に影響を及ぼしてるところというなら、たとえば格闘や喧嘩なんかのシーンでの身のこなしとかには自信持ってます。そういったシーンや感情を表現する場合にでも、やはりすんなりそこへ移行できる、準備が出来るって言うのはボクシングをやっていたおかげかも知れません。精神的な部分では、現場を最後まで逃げ出さないということ。勉強やボクシング、今の仕事のスタートの時期と、やはり節目節目でしっかり何かを勝ち取ってくる。そこまで行かない限りは簡単にはやめられないんだぞっていう感覚は、これまでの経験を通して培ったものだと思います。そして、その根底に有るのは、何かをしっかり掴み取って感じる喜びや快感を知っている。そして、それをまた感じたいという、気持ちの良さから来てるのだと思います。ただ、いろんな原因でそこまで行けないで終わってしまうものも、正直言ってあります(笑)それはそれで、後悔や悔しさ、歯がゆさをかんじます。 そうやって、経験を引き継いで行くという意味では、いまはイベントやこのFeelTheFujiに参加している仲間たちのように、デザインにも興味があります。これはやはり自分でファッションの仕事をしていて、いろいろわかってくるうちに、自分が本当にほしいなという洋服がなかなかなくて、だったら作っちゃえっていう感じで。自分ひとりではできないことでも、自分の周りにいる仲間で、できる人がいれば、そこにいって一緒に作っちゃうというような。いまもいくつかのプロジェクトで進めているところで、これはずっと続けて行きたいと思っています。でも、そうやっていろんなことにチャレンジして、自信をもって臨んでいくことで、結構どんなことでもこなしてきたんですが、自分が特別な能力をもった存在だとは思わないんです。確かに少し前は、イケイケなところもありましたけど(笑)、特に最近はそうじゃないなって。僕も当たり前の普通の人間だなぁとおもいますよ。25,6歳ぐらいの時に、仕事がうまく回らなくなった時期があったんです。それまでは何に対しても、どんなときでも、かなり前向きに考えられるタイプだとおもってたんですけど、そのとき初めて挫折を感じたというか、すごくネガティブになってしまったんです。頭の中とかもすっかり止まっちゃって、何をして何を考えていいのかわからなくなったりして。完全にリズムとバランスを失ってしまった。それで、初めて、毎日を繰り返し繰り返し積み重ねていける人ってすごいんだなぁ、と感じたんですよ。それまでの自分は、誰もができるわけではない、たとえば大きな仕事やイベントなんかに参加して、そういった機会に認められていくことを自信に感じていたんです。でも、いったん素っ裸になっていろんなものがなくなってみると、すごく積み重ねていくことの大事さと難しさを感じたんです。一つのターニングポイントだったとおもいますよ。

■自分の中に強い日本人観というものが有ると思いますか?また、そういった自分のいるコミュニティ独自のアイデンティティーを持つ、守るということをどう考えますか?

これは日本人だからこそ、すごく答えるのに悩んでしまう問題かもしれないですね。日本人観は確かにありますし、それを強く感じることも場合によってはあります。でも、日本で、日本人の中で、日本のスタイルで生きているうちはなかな意識的に言葉にしたりするものではないものなのでしょう。前に、映画の仕事で、海外のスタイルのなかにどっぷり入って仕事をしたことが有りますが、やはりそういったときには否が応でも自分は日本人なんだなぁと意識しました。  映画作りのスタイルや役者の演技の仕方というのは、まず海外と日本で大きく違っていると感じました。日本の場合、物語やキャラクター、そこから来る演出や役者の演技というのは、有る程度ターゲットが絞られていて、狭い感じがするんです。ですから、演じる側も大きくそこから飛び出していったり、はみ出したりする演技をする機会が少ない。向こうはそういった意味で、演じる側の自由度が高くて、振り幅も大きいです。そしてこれは、業界内のスタイルというよりは、日本人と向こうの人のマインドの違いから来ているものだとおもいます。これは、自分としては見習って、日本でもやってやりたいなと思う部分でも有りますし、実際何度かトライしてみたこともありますが、受け入れられることはまだ少ないかも知れない。実際、現場はちょっと引いてしまいます(笑)ただ、これは日本の市場の求めるものの違いだという考え方もできますよね。小津安二郎監督の映像のように、どこか規則正しい動きや画画、様式美的な有る程度決まった演技が、日本人の感覚の中では心地よいものなのだろうし、それを守って作っていく部分は日本の映画作りの特徴なのかもしれない。個人的にはもう一歩サムシングをという姿勢に引かれる部分はあります。

■過去、現在において、いわゆるアート(絵を描くことや映像、音楽等)との係わりはどうでしたか?それらが自分に及ぼす影響は有りますか?

 アートとの関わりで一番強かったのは、ロッドスチュワートのロックミュージックとの出逢いが大きかったと思います。 彼の音楽は、国境を越えて初めて自分のソウルに訴えかけてきましたね。まだ当時、高校生だった僕は、その時、和歌山の星空を眺めながら、一等星を見つけては、その星にロッド・スチュワートを想ってた。例えば、彼は今どんな事を考え、どんな暮らしをしているのか?そうやって、自分が純粋に憧れるアーチィストの後ろ姿を追い掛けながら、自分の将来像を少しづつ定めていったというところはある。俳優というポジションに落ち着いた今では誰かを目標にするということはしなくなったけど、その時々で、時代の流れに乗っているアーティストの何かを自分の中に吸収していくというのは俳優として大切なことだと思っています。  元来もっている日本人のピュアな感覚から、音楽やアートに限らず、西洋文化はミックスされているでしょうし、更にそこから全く新しいものへの変化というのも、各時代、各分野でおこっているでしょう。もちろん、自分でもデザインをやるわけですし、音楽もよく聴きますから、それらが様々な形で自分の表現に影響を与えているでしょう。そして、それらはそれぞれの世代の表現者達の間に、明確な差異を生んでいると感じます。きっと自分たちの演技は、そういったベテランの人たちから見れば、新しいスタイルと映っているでしょうし、逆に自分より若い世代の役者にもそれを感じて驚くことはありますから。これからも、外部からいろんなものが流れ込んできますし、若い世代を中心にそれらに関わる時間と機会はますます増えていくと思うんです。そういった中で、好いものが生まれてくることは認めるべきでしょう。しかし、守るべきもの、変わらないものが有るんだという感覚は、僕の中には強く有る方だとおもいます。 日本人には有る程度こういったマインドが根付いてるのかもしれませんね。日本の神道の主神は天照大神で、これは光の神、所謂太陽神。日本人の中には、最高の神の形は光なわけです。これが西洋だと、キリストなどの人物を信仰の対象にするわけでしょう?ここには決定的な違いが有ると思います。

■自分より若い世代の、文化やそこから来るアイデンティティーへのとらえ方についてどう考えますか?また、自分の行動がそういった世代に対してどのように影響を与えるだろうという事を考えることはありますか?

これはね、意外とないんですよね。だっていいものは年代を越えて、ハートに訴えかけてくるでしょう。自分よりも若い人だから、という偏見は極力なくして物事をキャッチすることは大事なことだと思います。ただ、最近思うのは、自分も含めて若者は、いいバイブレーションをダイレクトに発信できる反面、無意識のうちに社会的な常識が欠如していたりする。つまり、いいメッセージを発信できるからという特権のもとに、ポジティブという言葉のもとに、それがどこかで単なる甘えに刷り変わっていたりする場合が多い。そういう意味では、前に進むことも大事だけど、自省も同じくらいに大事にしないと、最終的には残っていかないように思います。  
  僕の出演した映画やドラマを通じて何かを感じ取ってくれることはすごく嬉しいことだけど、それはあくまでも芝居であって僕の本当の姿ではない。だからといって、自分を理解して欲しいかというと、案外そうでもない。だから俳優という職業についているんです。 もちろん自分の考えや行動、仕事に触れて、そこから影響を受けるひとはいるでしょうし、自分でもそれを自覚してはいますが、あまりそれを積極的に進めていこうとは自分からはしないんです。今、若い人のモラルやそこから来る問題などが取り上げられたりしていますが、これはいつの時代でも、有ったことでしょうし、この先も一定の割合で起きることだとおもうんですね。世の中っていうのはとてもうまくできていて、有る特定の人間や世代のモラルが悪いのではなく、状況や流れのなかでそういった問題ってのは発生したりしなかったりしてるんだとおもうんですよ。その一つ一つは大きな問題かも知れないですが、全体としてどんどん悪い方向に向かっているとは思っていないんです。ポジティブなパワーとネガティブなパワーっていうのは、どちらかが完全に無くなってしますようなものではないとおもうし、それが51対49で、ゆっくりと回っていたとしても、少しでもポジティブな方向に回っていればいいくらいに思っていますし、現在はその状況だと捉えています。たしかに、自分の考えや感覚を見習ったりしてくれることはありがたいことですが、そういったことは受け取る側の選択というものも大事だし、その選択するプロセスも含めてでないと伝わらない気がしますから、こちらから働きかけられるのは、自分のやっていることで、少なくとも自分は幸せに、誇りをもっていきていけてるよっていうメッセージだけで十分だと思います。