常に自分自身と向き合い、物事の本質と根源に立ち向かい、アイデンティティをさらけ出す。
そんな活動をしている、「富士魂」をもった、アーティスト、クリエイター達の声を聞く。
日本のジャズシーンのまさに黎明期から現在に至るまで、数々のキャリアを誇るベーシスト鈴木勲さんに、その年齢からは想像のつかないパワフルなお話を聞きました。これからのクリエイティブの世界への期待と自らの半生を語ってくれています。
■著名な若手ミュージシャンの方に勳さんの話しをすると皆、口を揃えてジャズの先駆者的な存在と見ているのようです。その先駆者の本人がジャズを始めた切っ掛けはなんですか?

いま、活躍してる人なんかでも、僕のやってるとこをTVでみたりラジオできいたりして、それがJazz始めるきっかけになったんですなんてきかされると、うれしいね。実際そのくらい長いんだよね。いったらもう終戦直後っていうくらい。 僕が初めてJazzに出会ったのは、米軍のキャンプ。サッチモが日本に来たときでね。うちの親父がちょうどそのとき株なんかやっててね。で、招待券もらったの。そのときは「おい、なんか黒いのがラッパ吹きにくるんだってよ」くらいのもんでね。まあじゃあいってみるか、って軽いのりだった。そのサッチモのときにね、5人くらいのメンバーでやってたんだけど、ある時ベース以外のメンバーがさーっと引いてさ、ソロになったのね。で僕は真ん前で見てたんだけど、こっちみて笑ってるわけ。「ほら、ベースやれよ。」って言ってるようなきがしてさ。うちに帰ってすぐに買ってもらったよ。ベースみたのも初めてだったのに。当時は今みたいに、最新の情報とかはすぐには世の中にひろまらないでしょ?で、Jazzなんかもとにかくその場に行ってみるってのが一番てっとりばやいのね。 もうJazzなんて全く興味も無いときに、今考えれば運良くルイ・アームストロングの初来日でね。彼だってそう何回も日本に来てないでしょ。1回か、おおくても2,3回だよね。それにぶちあたっちゃった。当時ちょうどダニー・ケイの「5つの銅貨」って映画が日本でも上映されてて、それに彼がでてくる。で、その後の来日だから、1950年前後だろうね。知ってる?当時の映画館なんてさ、扉はだーっと開けっぱなしで、座ってる人なんてひとりもいない。だって座ってたらみえないんだもの。ひとの間にまた人って感じで。だからまさにライブのノリだったんだよ。ほんと古い話だよねぇ。そういえばTVなんかも無かったなぁ。力道山なんてずっと後だし、TVが登場した時も例の街頭テレビなの。渋谷とかにさ、いまの家庭用テレビよりずっと小さいようなTVがちょこんっておいてあって、そこに500人くらいが群がってみてた。そんな時代。それから55年だよ。いろんなものがどんどん変わっていって、これからも変わっていくんだろうね。とりあえず全部見てきたってかんじ。音楽もね、その時代は歌謡曲ばっかりで、美空ひばり、笠置シズ子とかね。この頃は、ジャズより先にマンボ、ルンバ、タンゴ、ウエスタンとか、はやっていたかな、ダンスホールでね。それからジャズらしきものが少しずつ入って来た感じだなあ。

■勳さんは今から30年前ぐらいにニューヨークへ渡米して本場のジャズメンと交流を深め、アメリカの文化に触れた訳ですが、文化の違いを感じられましたか? 又、その中でもリスペクトできることはなんでしたか?

日本での活動をつづけてるときに、アート・ブレイキーに出会ったんだよね。僕のプレイをみて「一緒にやるか?」って誘われたわけ。35年前だね。そのまま渡米したんだけど、そこでの経験とショックってのはやっぱり大きかった。とにかく黒人のリズム感ってのはすごいね。道を歩いてても自然とリズムをとってる。耳も最高にいいね。日本人にはまねのできない部分はやっぱりある。でもね、日本人にしかできない部分もあるね。向こうにいる間は当然向こうのやり方、常識ってのに従っていかないといけないわけだから、いろんな物が壊されたところはある。僕の場合は音楽を通じてだから、それを受け入れたり、馴染んだりするのは速かったし、特に抵抗もなかったのかもね。

ブレイキーのバンドはジャズ・メッセンジャーだったけど、誰がつけたのか、良い名前だね。何か特定のものを伝えてるという意識はなかったけど、Jazzそのものがメッセージだとおもう。Jazzはそれぞれの個性やハートの融合、ぶつかり合いでできるものだし、それはその演奏者の生き方そのものが外に飛び出していくものなんだろうね。即興的に出た演奏で、なにも前置きや打ち合わせなしにセッションをしても、それぞれのメンバーがそれぞれのメッセージをしっかりはっしていれば、それでちゃんと本物になる。そして、それを見てる側が、メッセージとして受け取ってくれればいいよね。 Jazzってのは基本的にフリーでね、こうしなきゃいけないってのはあまりないでしょ。でもいくつかパターンみたいなものが決まってて、たとえばここのコードはこれからはじめようとか、この形が来たら一回りにしようとかね。で、それ以外はそれこそ、メンバーそれぞれが自分のプレイをだしきって延々演じるんだけど、やっぱり相当の技量と魅力がないと保たないよね。今、日本にはなかなか一人でそれだけ回せる人ってのはいないと思う。だから僕はいつもアレンジのこととか、工夫と知恵でやらないといけないと、若いメンバーなんかには言ってる。とはいっても、僕なんかはソロでフリーを遣ってるときなんかはほとんどなにも考えてはいないけどね(笑)周りの音も場の空気も全部聞こえてて、そのときに必要だ、これだとおもう音を自然と指で追っていってる感じだね。そういった感覚は経験の中で作られると思う。感性というのは磨ける物だと思うけど、それはまず自分を作ることだね。まねだけではダメ。人と違うものを工夫して、驚かせたときに自分の身についていくんだと思う。感性、技術、さらにそういったことに考え込まないことと、いかにバランスをとれるか、すべてを含んでいかないといけないんだから、難しいね。まあ一言でいうと「進化」なんだとおもうね。Jazzはセクシーでなければならないしね(笑) バンドではね、全体のリズムを作ってるのはドラムじゃなくてベースなのね。演奏してるときに、ベースがしっかり見えてるっていうのが一番良い形で、それができなくてドラムがドカドカきちゃうと、ノリがまったく出てこなくなるんだよね。
■勳さんに始めてイベントの依頼をした時に最初電話で話した時のパワフルさは今でも覚えているのですが、そのエネルギーの源はどこから来ているのですか?

おれはもう今年73でね。古いよ。でも周りの同じ世代の人なんかよりは全然体は動くし、まあもっと若い世代でも全然負けてないけど。いま、一緒にやってるメンバーなんかも1世代も2世代も若いんだけど、一緒になって「えー、マジデー?」なんて言ってるからね。あんまり見ないでしょ、「ヤバイネー!」っていってる70代(笑) ベースってのは意外とおもくてね。基本的に木でできてるし、中はがらんどうだからそれほどでもないんだけど、これを1ステージのあいだにずっと支えとかないといけないでしょ。これが結構体力いる。だから今でもちゃんとトレーニングしてるからね。腕はいまでも若い人にまけないくらい筋肉ついてるよ。でもね、このまえ一度病気しちゃってね。胃ガン。医者には「もうだめかもわからんねぇ」なんて言われちゃって。かなり落ち込んでね。もうどうしようかって考えちゃった。意外とね、そんなときにやっぱり音楽のことを最後は考えていたいとか、そういうかっこいいことではなかったね。身の回りをちゃんとしとかなきゃ、あの女に連絡しとかなきゃとか。まあそんなこと考えてたくらいだからまだ余裕あったのかもしれないけどね(笑)ただ、まあ死ぬってこと、自分のやるべきことが、すぐ明日にはできなくなるかもしれないってことをそのとき思い知って、あれから何年かの間は本当に充実したとおもう。とりあえず悔いの無いだけのことを真剣にやっていく契機になったんだろうね。

■これからの時代を背負う今の若い世代に人生の大々先輩の勳さんからメッセージをお願いします。

これからのJazzってのを考えると日本は大丈夫かと思っていた。今は音楽や映像、そのほかほとんどのカルチャーってのは海外から入ってくるけど、その中から本物を育てていく、本物のわかる市場をつくっていくっていう土壌は、日本には無いようにおもえるね。有名な批評雑誌での評判だってCDのチャートのランキングだって、お金をはらって買ってるような状態だからね。それでは、ほんものを見分ける、聞き分ける世代が育つわけがない。プレイする側、受け取る側双方がレベルアップしていくことで、本物のわかる国になっていくんだろうね。最近はやっと、そういった宣伝なんかがされていないものにふれたり、チョイスする側が偶発的に出会えるような感覚が芽生えてきたのかもしれない。これは受け取る側が成長したということだとしたら、同じように今度は提供する側、とくに有名なプレイヤーこそ、本物をしっかり提供できるようにならないといけないし、そういう心構えでいるべきだと思うね。 いろんなこだわりとか、しがらみとかそういうのを考えないで、とにかく一人でも多くの人にJazzを聞いてもらいたいし、そういう意味では50代、60代もっと上の人にもね。